志賀理江子「ブラインドデート」(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館/2017.6.10-9.3)

 気持ちの良い外光が差し込む階段とバルコニーを通り抜け、入口に掛けられた分厚い遮光カーテンをくぐると、暗闇の奥からふいに放たれた赤色の閃光に目が眩んだ。亡霊のような黒い人影がうごめき、壁面には惑星のような赤い円形や裸体が絡み合う巨大なイメージが投影され、カシャリ、カシャリ、と湿り気を帯びた不規則な機械音が響き渡っている。「広くて天井高がある開放的なホワイトキューブ」と、以前訪れた際に記憶していた展示室が様変わりしている事に、まずは驚かされた。徐々に目が慣れてくると、亡霊たちは監視員や来場者の姿であり、不気味な機械音を発していたのは、展示室全体に点在する20台あまりのスライドプロジェクターだと分かってくる。プロジェクターはそれぞれ高低様々な脚立の上に設置され、まるで医療用カテーテルか、はたまたへその緒かのように、天井から垂れ下った電源コードやLANケーブルに繋がれている。全てのプロジェクターとプリント作品を照らし出すスタンドライトはコンピュータ制御されており、一定の間隔で全ての電源が落ちて、息を合わせたかのように一瞬だけ展示室内は完全な闇になる。まるで空間全体が一つの生命体であり、その体内に深く潜り込んでしまったかのようだった。

 

 この大規模なインスタレーションを構成する一つ一つのイメージには、投影サイズが非常に小さなものも含まれている。プロジェクターを焦点が合うぎりぎりまで壁面に寄せて設置しているため、その映像は異様に鮮明で明るく、まるで壁がモニターのごとく発光しているかのようである。瓦礫に折り重なる人々、海底に散乱する綱、泥だらけのオブジェのような物、捧げもののように盛られた果物、べっとりと何かに覆われた遊具、血糊にまみれた新聞紙…。不規則にプロジェクターのランプが明滅を繰り返すため、注意深く見ようとしても、ランプが消えるたびに何も見えない壁を凝視することになるのだが、むしろランプによってほんの一瞬だけ姿をあらわにすることで、現実離れした悪夢的と呼べるほど生々しいイメージたちが、「いまここ」に呼び戻され、鮮烈な束の間の生を与えられるかのようだった。志賀による過去の展覧会や出版物、発言からは、“手で触れられる”ということや、イメージが定着された“ブツ”としての写真への過剰とも言いたくなるほどのこだわりが窺えるが、光源が消えればイメージは見えない、という意味では、印画紙に定着された写真もプロジェクターによる投影も同じとは言え、ランプが消えれば物質的なものは何も残らず跡形もなくなってしまうため、今作はライブ的であると同時により“視覚的”であり、それはタイトルの“Blind”とも呼応していく。

 

 本展は、上述したインスタレーションの他に、展覧会タイトルにもなっている、2009年にタイ・バンコクでバイクに二人乗りする恋人達と並走しながらその姿を捉えた「ブラインドデート」シリーズと、展示室外の廊下壁面にびっしりと印字されたテキスト群によって構成されている。これらはそれぞれ異なる質を持ちながらも、等価に、互いに浸食し合うように展開されており、テキストによる表現と、写真やインスタレーションといったビジュアルによる表現との往還のなかに、志賀の希求する「イメージ」は結実するのではないかと感じた。また、衝動的でときに暴力的なほどの「イメージ」への渇望を創作の核としてきた志賀だが、宮城での被災経験を経た2011年以降に制作(あるいは展覧会として構成)された今回の作品は、震災や原発、戦争、愛といった“大きな物語”を、被災以前からその土地に一住民として暮らしていた当事者として、あるいはともに疾走し視線を交わし合った一個人として、あくまで作家個人の切実な皮膚感覚とも言える主観性によって徹底的に身体化することで、問題提議や悲観に留まらない、独自の温もりや手触りを獲得しているのではないかと感じた。志賀の表現は一見、暗くておどろおどろしい、といった印象を与えがちであるが、彼女が真にその手に掴もうとしているのは、あの展示室に入った瞬間の赤い閃光のような、生の眩いばかりの明るさなのかも知れない。

フェリックス・ゴンザレス・トレス《Untitled (Placebo)》(1991)

フェリックス・ゴンザレス・トレス《Untitled (Placebo)》(1991)

 

 フェリックス・ゴンザレス・トレスの《Untitled (Placebo)》は、セロファンに包まれた何百個ものキャンディが床に方形にしきつめられているだけという、ミニマリズム的といえるほどシンプルな形態をとった作品である。銀色のセロファンが窓からの光を受け、まるできらきらと光る絨毯のようだ。そして驚くべきことに、鑑賞者は警備員にそのキャンディーを自由に手に取り、食べることを促されるのである。いわゆる絵画、彫刻作品という視覚芸術を美術館に見に来た観客は多いに驚くことだろう。

 

 ときにキャンディが山のように積まれる形で設置されたり、包み紙が青色であったりカラフルであったりと、展示場所や時期によってこの作品の形態は微妙に姿を変える。しかしいつでも変わらないのは、キャンディの最初の総重量と、そのキャンディの絨毯が観客の介入により時間とともに形を変え最後には跡形もなくなってしまう、ということである。

 

 フェリックス・ゴンザレス・トレスは1957年キューバ生まれ。プエルトリコで育ち、ニューヨークの美術大学で学んだ。そしてそこで、アートの政治的・社会的な意義を追求した「グループマテリアル」の一員として活動をはじめた。彼は主に時計や印刷した紙、電球などどこにでもある凡庸な既成品を用いた作品を発表しており、この作品もその例外でないといえる。また移民であるという民族的マイノリティであると同時に、ゲイであるという性的マイノリティでもあり、この二重のマイノリティであるということが、彼のアイデンティティに大きく影響し、作品制作の動機に繋がっている。

 

 《Untitled (Placebo)》でのキャンディの最初の総重量とは、彼とエイズで亡くなった恋人の体重の総和である。観客の、「キャンディが食べられる!」という無邪気な欲望や喜びとは裏腹に、それは彼と恋人との「甘い」時間が時とともに残酷にも消え去ってしまうことを暗示する。

 

 「アートは、作品の形式や、出てくる形や、どんな風にその疑問がどのように表されているかということですらない。疑問がこめられているのは僕自身だ。僕が『Untitled(Placebo)』を作ったのはそれを作る必要があったからだよ。その作品が消えて、存在しなかったという状態を作りたかったという以外に理由はないんだ。ロス(トレスの恋人)が死んでいくという例えだったんだ。だから、作品が僕自身を放棄する前に、僕が作品を放棄したのだろう。作品が僕を破壊する前に、僕が作品を破壊したのだろう。それはこの作品にもたらす僕のちょっとした特権といえる。」 ArtPress 1995年1月号でのインタビュー

 

 彼と恋人の体重の和だけのキャンディが”ある”ということではなく、キャンディが不特定多数の人々に持ち帰られることによって、キャンディの絨毯が徐々に変形しそして消えていく、という変化自体、あるいは、あったものがなくなる、”無い”という状態が発生する、ということがこの作品の核となっているのだ。

 

 こういった、彼と恋人との関係を表現した同時期の作品には他に、《Untitled (Perfect Lovers)》がある。これは、安物の壁掛け時計が二つ並べられ、同時刻にセットされて時を刻んでいるというもので、二つの時計はそれぞれトレスと恋人を表している。この作品においても、トレスによって意図的に決められるのは最初に二つの時計を同時刻にセットするという最初の状態だけであり、二つの時計はその後、安物の時計であるが故の不正確さやパワー不足によって、少しずつ自然と時間の歩みがずれていったり、片方だけ止まってしまうのだ。こういった無力感は、”placebo(=気休めの薬)”というタイトルにも通じており、実際、当時のエイズ治療の薬は気休めにしかならないものだったことから発想されたのだろう。 1990年前後は、マイノリティによる社会的な活動が活発な時期であり、ゲイもその例外ではなかった。《Untitled (Placebo)》や《Untitled (Perfect Lovers)》の場合、そういった声高な主張というよりは、そこにはただ、最愛の恋人を失った悲しみと、人の命の儚さや尊さを思い起こさせる、鎮魂のための儀式のような静けさがある。

 

 《Untitled (Placebo)》はそういった私的、あるいは詩的な表現であると同時にまた、観客が作品に関与するということ、鑑賞者と警備員との会話が発生すること、展示のたびに作品は補充されなければならないこと、五感の中で身体から最も遠い感覚である視覚による芸術のための美術館という場において、身体に最も近い感覚である味覚を観賞に用いるということなど、作品と観客の関係や、美術館という制度への問いかけという側面も持っている。また、矩形に並べられたキャンディは絵画の様式を彷彿とさせ、それが直に床に寝かせた形で設置され時間とともに崩壊していくということを、デュシャン以降の伝統である美術という制度への言及という面からも考えられるかも知れない。

 

  トレスは1995年、恋人と同じくエイズで若くしてこの世を去った。しかしその後も、彼(と恋人)は作品の鑑賞者へと自らの身を切り自己犠牲愛的に与え続け、そして彼の一部を身体に取り込んだ鑑賞者は世界中へと散らばってゆく。キャンディが補充され続ける限り、彼と恋人の日々の、あるいは人が生きるということの儚さは、ただキャンディーという媒介を通して、世界中で永遠に生き続けると言うことが出来るのではないだろうか。

 

 

参考

アートナウ ユタ・グロズニックほか

現代アート事典 美術手帖

minfish.jp http://www.minfish.jp/text/felix/index.htm

 

2012.7.25